マイク眞木( ミュージシャン・俳優 )

2014/01/29
by up cycle

【マイク眞木さん流UPCYCLE

                                                                                                                          (インタビュー/写真 福井香菜子)

 

 

FEATURES】第4回目は、ミュージシャンや俳優として第一線で活躍し続けるマイク眞木さんに登場ていただきました。マイク眞木さんは、物作りの達人としても知られています。千葉県のご自宅のを始め、ボートを置く小屋、楽器、インテリア雑貨などこれまで様々な物を作られてきたそうです。回は、マイク眞木さんの物作りに対する考え方を中心にお話を伺いました。                                      by スタッフ)   

                                                                                                                                                                                   

  

 

マイクさんの東京 赤坂のご自宅を訪ねた。ここはマイクさんの生まれ育った一軒家だ。昔は平屋だったそうだが、今は改築して2階建てになっている。普段着のマイクさんがやわらかい笑顔で出迎えてくれた。家中に、てづくりの楽器、ランプ、船の模型などが並んでいて、赤坂のビジネス街とは思えないさわやかな雰囲気がただよう。

 

 

【東京でアウトドア マイクさんの少年時代】

 

 

「舞台美術家で、絵描きの父親と一緒に、小さい頃から模型の飛行機を作ったり船を作って近くの池に浮かべたり、凧を作って揚げたり。昔はこの辺でもそういう事ができたんだね、東京で結構アウトドアしてたんだ。父親は明治生まれだったけど、スキーをやったりゴルフをやったり山に登ったり、音もやってたし、今思うとイッちゃってる人だった(笑)その父親の影響は大きいね」

 

その後、中学高校とラグビー、大学ではバンドマンと、活動の幅を広げながらもいつもかたわらにはものづくりがあったそうだ。

 

「ペンキを塗ったり、時計やラジオを分解したり、模型を作ったり、何かしら常にやってたね。それで、大学では父親の勧めもあって特撮映画の方に進もうと思っていたんだ。TBSの裏方のアルバイトで、模型を作ったりして、そのまま裏方で就職でもするのかなーって考えていた」

 

 

【ミュージシャンとしてのマイクさん】 

 

 

そんな時、バンドの先輩から頼まれて仮歌で録音したデモテープが[バラが咲いた]だった。

 

「ちょっとレコーディング手伝ってよ、って言われて仮歌で録音したのがそのまま僕でいく事になっちゃって、大学2年の時にいきなりデビューしたんだ。もう、それからは何がどうなってるのか急に忙しくなっちゃって大学にも行ってられないし、ギター片手にとにかくあっちこっちライブに行って、歌手としての[マイク眞木]っていうのが自分からはなれてどんどん行ってしまう感覚だった。だから、最初は自分の意志で歌手になった訳じゃないんだ。今は、自分のやりたい事と違うけど、来年にはみんなきっと忘れてる、1年経ったらまた特撮の裏方に戻るんだろう、これは一時的な現象だろうと思っていたんだ」

 

マイクさんの話しぶりからは、そんな人生の転機でも自然にまかせ、受け入れるスタンスが感じられる。そして今でも、ミュージシャンとしてのマイク眞木さんがいる。

 

「音楽って、いつまでも完成することがなくてその瞬間にどんどん消えていってしまうし、その場の間(ま)みたいなものが一番大切。そこが面白くて好きなんだ。だから今でもライブの時、あまりいろんな事を決めずにステージで反応を見たりしながらやっている。その間(ま)っていうのがいわゆるセンスなのかもしれないけれど、だから、音楽をやるのに音楽だけを勉強するっていうのは僕はちょっと違って、俳優業もそうだし、アメリカに居る時は庭師やったりガイドやったりいろんなところから音楽は学べるんだよね」

 

 

 

 

【マイクさんとアメリカの文化】

 

 

マイクさんの少年時代、戦争に負けた日本にアメリカ文化が一気に入ってきた。

 

「この家の近所の通りを、ハーレーや車、馬でアメリカ人が上陸してきたんだ。やられたって思いと、これじゃ、日本負けるよなって思った。それまでは、かまぼこ板使って船とか作ったりしてたのが、プラモデルが入ってきたときは、衝撃受けちゃって、完全にハマっちゃった。だから、底辺にあるのは、アメリカに対しての敵討ち。あだ討ちをしようっていうのがある。父親の代はアメリカに負けた。僕自身の個人的なあだ討ちとして、アメリカ人以上の事をしてやろう、アメリカ人を超えてやろうって。アメリカ人と同じものを食べ、アメリカ人と同じ服を着て、アメリカ人以上に英語の曲を覚え、バンジョーも練習した」

 

アメリカに対する憧れと、復讐の気持ちがマイクさんの根底にあった。

 

「実際にアメリカに行って、ビックリして刺激を受けたのは、アメリカの父親って何でもやるということ。偉そうにしてて、妻をしもべのように使うっていういわゆる日本の父親とはちょっと違って、皿洗い、子供のお迎えから、家も造るし、水漏れも直しちゃう。日本では水道は水道屋さん、電気は電気屋さんと分業しているけれど、アメリカの父親はなんでも自分でやってしまうんだ。最初は負けてられないって気持ちだったけど、そういうアメリカの文化を吸収していくなかで、僕はそっちの方がどんどん快適になってきたんだ」

 

マイクさんの日常にあったものを作るという行為と、アメリカの文化がうまく繋がっていった。

 

 

 

 

 

【インスピレーションと勘を頼りに マイクさん流UPCYCLE

 
 

千葉の自宅のリフォーム、山梨のログハウス作りから米作り、ギターで作ったランプなど、たえずものづくりをしているというマイクさん。大きいものから繊細なものまで、暮らしに必要なものから、作品と呼べるものまで。このインスピレーションはどこからくるのだろうか。

 

「どこからかアイディアが突然降ってくるんだ。服や車を選ぶとき、ハワイの住む家を決める時も、無心に行ったり来たりしてると向こうから呼んでくれるんだ。ものが僕を見つけてくれる フィフィ(口笛)って。今までずっとそうだった。その勘だけを頼りに生きているところもある。だから、ものづくりもそのインスピレーションが降ってきたらやらずにはいられない。次から次へとお告げがあるときは忙しくて大変なんだよね(笑)」

 

それは自身の父親から受け継いだアーティスト的なものづくりの精神。

そして日常的に必要なものを作ってしまうアメリカの父親像。

このふたつの父親がマイクさんのものづくりの要素なのだろう。

 

マイクさんは、自然体でUPCYCLEと言う考え方を体現している。UPCYCLEという言葉が生まれる以前から [マイク眞木はモノを大切に使いさらに形を変え使い続けるという魅力的な循環を生んでいる。

 

【マイク眞木】

 

 

 

1944427日東京都赤坂に生まれる。

1963年、モダン・フォーク・カルテットを結成。1966年、ソロ・デビュー曲「バラが咲いた」が日本のポピュラー音楽史に残る大ヒットを記録。その後<の~んびり行こうよ、俺たちは>のフレーズのCMソング「気楽にいこう」等で知られる。ハワイに6年間在住し、現地ラジオ番組でDJとして活躍、現在は千葉県南九十九里に在住。2006年には歌手活動40周年を迎えた。

 

 

 

 

【収録後記】

 

今回の取材は、マイク眞木さんが生まれ育ち、今でもお住まいになっている赤坂のご実家で行われました。昔ながらの一軒家でありながら、とてもモダンで一目でセンスの良さが伺える素敵なお家でした。打ち合わせ中、インタビュアー&カメラマンの福井さんの愛用カメラを見て「おー!すごいカメラだな、今どきフィルムなんて珍しいな」「最近フイルムで撮られる事が無いから、緊張するな」とおっしゃっていましたが、そんな不安を微塵も感じさせない素晴らしい写真が撮れたと思います。※一番最初と最後の写真がフイルムの写真です。インタビューの終わりに、マイクさんがおもむろに福井さんに「これ使ってないから良かったら使って」と古いフイルムカメラを差し出しました。そんなサプライズな事をサラッと出来てしまうマイクさんは、本当にカッコいい人だなと思いました。(スタッフ)

 

 

 

 

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